じゃあ、へら絞屋が使用する「絞り旋盤」の作り方のレクチャーをば・・・(←何様だっ!!)/金属ヘラ絞り加工・各種金属板金加工は埼玉の佐藤製作所|東京・神奈川・千葉

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じゃあ、へら絞屋が使用する「絞り旋盤」の作り方のレクチャーをば・・・(←何様だっ!!)

じゃあ、へら絞屋が使用する「絞り旋盤」の作り方のレクチャーをば・・・(←何様だっ!!)
  • 普段は旋盤として使用。へら絞り加工をするときは、テールストックと袴を外して、刃物台が乗っかってるエプロンを右端に寄せて、中央に「テコ台」というテコの原理を利用した台を設置します。そしてエプロンの左側にテールストックも設置します。この一連の作業を毎回毎回、何度もやらなければなりません。

  • メモリないんですよ!すごくないですか??創業したてで設備が揃っていない時ならともかく、黙っていたら一生このまま・・・素人の状態で入りましたが、こんな設備でイキがっているような職人に(例えば、「金型が作れなくて制作を外注に出している、へら絞り屋が小規模工場ではかなりの割合を占めるんだ!」とか)なにを、学ぶことがありましょうか??幸なのか不幸なのか、入ったその日から(実際は以前から薄々知ってた)「あ、こら、アカン。この人はアテにできない。独学で仕事覚えな・・・・」と、根性もなくぐうたらな私でも自然に自発的な努力と研究をするような流れになるわけです

  • 大正時代は画像のように中央にテコ台を設置すれば簡単にイタズラ(絞り加工)できたことと、当時は簡単な絞りしかなかったので、誰でもすぐにヘラ工になれました。難点はエプロンとテールストックを毎回、組み替えるのが面倒なことです、そこでテコ台を反対に設置して機械の背面から絞り(背面絞りとここでは表記します)加工をすればエプロンとテールストックを正規の位置のまま使用できて楽なことと、不幸なことに当時は技術的にそれでよかったのですが(さらに剛性も低いオモチャのようなテコ台で良かった)時代の経過で要求されるレベルが上がってくると、背面絞りではできない絞りが多くなってきて昭和40年頃は、非常に苦しい思いをしながら、背面から正面絞りに矯正した何人かの若い職人さんたちの話を聞いたことがあります

  • 「昔の旋盤工は歯車の計算を自分でしたんじゃぁぁ・・・」とはこういうことです、ギア組み合わせの表示パネル(早見表)など付いていないので、計算します(今でもすることはあります)この旋盤は親ねじが「インチ2山」ねじ切り加工は、ウイット規格「インチ8山」しか、父親は切らなかったので、計算もクソもなく付けっぱなしでした。一生組み換えなし

  • 裏側参考図 おそらく私が家の手伝いに入らなかったら、今でもこのガタ旋盤一台だけで(絞り旋盤は除く)仕事してるのでしょう。あるいは私が言われたことだけしかしなかった場合もしかり。こんな工場が平成20年代まで存続できるはずもない。そしてその事実を絶対に認めない。お手伝いさんの息子を無能、疫病神扱い、上から目線の両親とは不仲になっていきます

名称 じゃあ、へら絞屋が使用する「絞り旋盤」の作り方のレクチャーをば・・・(←何様だっ!!)

そんなに難しくはありません。バトル漫画ですと連載が長くなると敵の強さのレベルが、連載開始時に比べて、バケモノ級に上がってしまうように、今、要求される技術レベルでは無理ですが、昭和40年代なら、以下の要領を抑えれば、とても「ヘラ工」とは言えない、ほぼ素人でも起業できます。人並の頭脳があればここから小規模ではなく中規模、大規模工場にも発展させることも決して夢ではありません(奥に当時、建造中だった中型絞り旋盤(変な緑色の)も映ってます。これも製作途中で何年も放置していたので変速機のみ調整用の試運転時にはねたギアオイルの部分が変色しています。毎日使ってる機械ですとこのような汚れ方、シミにはなりません)

それにしてもすごい旋盤。古いだけでなく(戦前です)カミソリはガタガタ(鋳物で剃刀を作り直さない。そもそもそういう知識の引き出しがないので、その発想もない)バックラッシュ、ガッタガタ。少しでも多く切り込むと「ガクン!」と刃物がワークに深く食い込んで主軸が止まってしまう(もちろん動力は止まらない 回し続けようと作用している)ガタ度。端面も真っすぐ削れない。そしてなんといっても、メモリが付いていないので目見で削る!(大ハンドルはともかく、小ハンドルも中ハンドルも目見当で精度を出します)

ガタガタなので普通に使ってても刃物(切削バイト)すぐ欠けてきます(刃こぼれします) 40Φ以上の太いメスねじなど切れません(切れても父親のスキルでは太いねじ切りできません)

メモリがなくても削れますよ・・・正確に。要領は30Φ プラス0マイナス0.02に仕上げる切削加工を粗削りで30.2Φから仕上げるのと同じ要領で加工するのと、ほぼ同じです。

ですから15分でできる金型作り90分位かかります。ですから、土曜も日曜も当然ありません

へら絞り加工品もこれで削ってました。金型製作は、手で持てない重量物は加工できません(馬やチェーンブロックがないので、重くてつけられない)

やや、大物でどう考えても金型で絞る製品を(特に量産品)70年代に、「毎回毎回、新規に木型を起こして制作したがる工場」が昔は結構あった理由は上記のような理由や、技術的に自社でその手の金型が作れないので、木型(木は軽いですし、切削性は鉄とは比べ物にならないほど容易ですので)を毎回、使用していたことに(とても不経済&時間の浪費&製品の正確性の欠落)繋がります

金型のメスねじのウイット1インチ(25.4Φ 8山)のねじ切りは、この旋盤でものすごいやり方で(邪道中の邪道)切っていました(汗

よかった探しをするとすれば、「ガッタガタのテールストックで仕事をするのは絶対に嫌だ」という気持ちが父にあったので、テールストックは我慢せず全部の機械が新品と交換してありました

(でも普通、貧乏な会社で、設備を増やそうと思ったら(思ってなかったようですが)テールストックくらい木型起こして、鋳物で自分で作ろうぜ!・・・と。私なら思う)

 

 

当時(昭和40年代の当業界)は技術的に今よりも遅れていたということのほかに、本当に簡単な仕事の依頼がかなりあったので、すべての仕事を受けて、できない仕事は外注に出し、素人同然の自分は自分ができる、本当に簡単な仕事だけをこなし、ギリギリできない仕事は(現時点では技量的に、逆立ちしても無理な製品も含む)外注に出しつつ、並行して自分でも金型を製作し、お得意様からの依頼とは別に、自分への鍛錬として、練習、研究をしながら(つまり、納められる製品にならなくてもやってみる)スキルを上げる。

これを、何年も続けていると自然とへら絞り加工ができるようになります。難点は、例えば、当時は銅や真鍮の熱処理は、炭でなます。ステンレスはコークスを使う。

これが定石だったのですが、時代が経過するとコークスから、酸素とプロパンを使った「加熱器」に移行していきます(今は、炭も使わね)しかし、ずーーーーっとタコ壺の中にいると、加熱器の存在を知るのが8年くらい遅れて、損をする傾向があります(でも、もう関係が破綻しているので、今同じことが起こると(実際よくある)「オレなら、勝てたぜ!」とか親に向かって言うようになってしまいました。で、本来、親に向かってそんな口を利くような息子ではなかった、こういった状況に至った経緯は・・・と繋がる)

 

あと、この手の起業の仕方は昭和20年代とか戦前の起業パターンの一つです。昭和40年代ですと、普通なら「佐藤さんは(私の父)世田谷区のXX工業の絞り部門で仕事を覚え昭和4X年に起業し・・・」とかなるのが一般的ではないでしょうか?

戦前は、いろいろな工場に絞り職人がいたりもしました。戦前の旋盤ですと画像のようにすれば簡単にイタズラでへら絞り加工ができたので、どこの工場もやった人がいるのではないかと、思ってみる。

大正時代に「国策でフランスからへら絞りの技術指導を招いて・・・」そのような伝わり方ではありません。おそらく日本では多くの草分け職人はイタズラから・・

少なくともうちの父親は、誰の教えも請わずに(厳密にいうと2点くらい簡単な絞りは実家でやったことがあるらしいです。でも鉄のフチ巻きなどできなかったレベル)80年代中ごろにはステンレス絞りも水準に達していました(そこまでは、見上げた根性! 偉かったんだけどなぁ・・・・)

 

世界レベルの当業界の工場主。偉いセンセもほかの偉い人からの指導の下で現在のスキル、技術を覚えたのではありません、本当に簡単な絞り加工から初めて、誰に教わることもなく自分の力で(自分が起業したときはいなかった、自分が築いた副官、下士官との協力も含む)独自に発展しました(あるいはそれが他所に流れたりとか…)

 

 

 

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